【何者】岡本光一は誰?職業は元会社役員!wiki風経歴は?
岡本光一さんとは何者なんでしょうか?
そんな岡本光一さんのwiki風経歴を見て行きたいと思います。
大学時代
岡本光一さんは、京都の大学に通っていました。
当時は全共闘や学生運動が盛んで、岡本光一さんも社会主義に傾倒していました。
ただ、今の岡本光一さんは社会主義がいいとか資本主義がいいという様な事は思っていないそうです。
元々は電子技術屋
元々は電子技術屋で回路設計をしていましたが、30歳手前で失業をしました。
そして、小さな新聞広告の求人を受けると合格したので就職をします。
この会社がキーエンスで、当時は小さな会社でしたが、仕事をやり出すと楽しくて、どんどんハマって行きました。
そんな時に社長から
これからオートメーションのセンサーが売れる。それを開発してくれ
引用:バリアフリーチャレンジ!
と言われたので、開発し、それは製品化されます。
その商品は毎年倍々と言う感じでかなり売り上げを伸ばします。
それにより、会社の規模も大きくなり、一部上場企業にまで成長しました。
ただ、それと相反し、岡本光一さんは沈んで行きました。
会社を辞める事を決断
そして、最終的に社長に「辞めたい」と言うも、辞める理由がいるので、「ボランティアがしたい」からと言われたそうです。
ただ、この時出た「ボランティア」に関しては、岡本光一さん曰く「今、考えるとよくわからない」とか。
岡本光一さんは会社がかなり大きなビルを建った1994年に辞めました。
ただ、社長も分かってくれて
しばらくの間、監査役でいいから来ないか
と言われたので、月に一度は出社をしていました。
キーエンスの保有株数は?
岡本光一さんは3番目にキーエンスに入社してて、その当時に社長から「株を持たない?」と言われ、そんなたくさんの数ではなく株を持つ事にしました。
最初から社長さんは岡本光一さん技術を繋ぎ止める意図でストックオプションとして株を持たせたそうです。
この頃は株が上がるとは思っておらず、社長はずっと「この会社を上場する」と言ってたけど、岡本光一さんは「何をでかい事ばかり言ってるんだ」と思ってたそうです。
キーエンスの社長の瀧崎武光さんについて岡本光一さんは
精神的に強い、経営者としてすごい人だと今となっては思います。
自分の考えを貫くってなかなかできることじゃないからね。
と話されています。
岡本光一さんは瀧崎さん共にキーエンスを発展させました。
ちなみに、奥さんは明美さんでキーエンスの初期メンバーとなります。
パフェット・コードによりますと、岡本光一さんのキーエンスの保有株の情報は
- 保有株式数:295万2000株
- キーエンス株価:63600JPY(2025年2月3日終値)
- 時価総額:1877億円
2025年には1株当たり350円の配当金が払われる予定で、配当金だけで10億円を超えるそうです。
ボランティア活動を始める
そして、1995年に阪神淡路大震災が来て、仮設住宅でボランティアを始めます。
始めると仮設の人達と仲良くなり、地域の人達の繋がりは人間と人間の付き合いなので、会社の時のは違いリラックスして付き合う事が出来ました。
その人間関係が魅力的・新鮮でボランティアにのめり込んでいきます。
市役所に駆けつけ、最初にしたのが屋根にブルーシートを張り、それをしてると仮設住宅が出来ました。
仮設は入り口や風呂場などに段差があり、「それを解消して欲しい」との要請が市からありました。
それならグループで活動をしようと「日曜大工ボランティアでえくさんず」を作って、仮設住宅を回ります。
そこでは大工仕事や力仕事などどんな事でも行い、家具の移動や引っ越しなどのボランティアを仮設が解消するまでずっと続けました。
岡本光一さん達は震災ボランティアなので、活動拠点の私設を特別に貸して貰っていましたが、他のグループはいつでも使える所がない事に気付き
で、いつでも使える活動場所があれば、
もっともっと市民がボランティアに参画するのではないか、
と考え、広くて大きなボランティア活動センターを自分で作ろう、
と思い、市に協力をお願いして、銀行と交渉して個人で施設を購入します。
それから公益財団「プラザ・コム」を設立し、2002年に活動拠点の「ぷらざこむ1」を含む宝塚福祉コミュニティプラザを整備し、現在も岡本光一さんは運営に携わっています。
※「プラザ・コム」の基本理念は「市民自らが町や社会を作る」で、「ぷらざこむ1」もボランティアの人達が「こむ1会」を作り運営しています。
以上が、岡本光一さんが何者なのか?に関する記事ですね。
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